Cliffworks - Cliff Woolley - Japan

東京・クラシファイド・マガジン・2000年

インタビュー「音楽の力J

「写真: クリフ」

東南アジアの子供たちに希望の音を届けようとしている元ポップ音楽家クリフに、
ヴァネッサ・エイセルがインタビューをした。

「私のことを夢想家だという人もいるでしよう。でも人生にもっと音楽があったならこの地球はずっとましな場所になるのではないかと私は思うのです」 『銃のかわりにギターを』 運動を立ち上げたクリフならではの言葉だ。「聡明な音楽は人々の心を和ませ、その資質を伸ばす」。自身の経験からクリフは音楽には人の心を動かす力があることを知った。

アメリカ海軍軍人の家庭に生まれたクリフは幼いころから転地の連続で、友だちと別れなければならないことがしょっちゅうだった。「音楽と本が生涯の友となったのは、それがいつも一緒にいてくれるものだったからです」。

音楽の才能に恵まれた級友の多かったクリフは10歳から本格的に音楽の勉強をはじめ、12歳で最初のバンドに加わった。だから1971年、20歳の学生のときアメリカ国防省の仕事でベトナムへむかったのは、ベトコンと戦うためではなく戦争に倦み疲れた兵士たちの耳に彼の奏でるギターの音をとどけるためだった。

「米軍組織の要請でベトナム全土の医療施設をまわって音楽を演奏し、傷つき神経のささくれだった兵士たちを慰問し、士気を高める仕事でした」。そこでいつもうける質問は「脚を無くして復員しても彼女は僕を愛してくれるだろうか?」というものだった。「戦闘地域では若僧にすぎない私で、したが、音楽のもつ癒しの力は胸に刻みこまれました」。

その後同じ仕事で日本とフィリピンをツアーしたのち、クリフは故郷カリフオルニア州ガルテ、ナに戻り、エル・力ミーノ大学で音楽理論の勉強を再開する。多調音楽の巨匠トミ一・グミナにジャズ、を学び,1970年代はじめのロックオペラ 『トミー』のアメリカ公演で演奏、級友とともに 『アンブロージア』 というバンドもつくった。また,伝説的ジャズ奏者アート・ペパーとも共演し、『アソシエーション』 というポップグループのメンバーでもあった。

ウドー音楽事務所の招きによる1978年の来日ツアーののち日本に移り住み、シェクター・ギター・リサーチ社で来日アーティスト向けのギター販売デモンストレーションの仕事をはじめる。だが1995年、戦乱に疲弊したカンボジアを訪れたクリフは、ふたたび、自分の音楽の才能を人々の癒しに役立てたいという望みに駆られたのだった。

1997年のクーデターで、外国人のほとんどが国外退去したあともクリフはカンボジアにとどまった。「プノンペンの街には残酷な戦闘、殺人部隊、混沌、戦車があふれ、何万という難民がタイ国境になだれこんでいきました」。

戦闘のおさまった一月後、クリフはカンボジア障害者組織の音楽監督に任命され、視力障害、身体障害のカンボジア人に音楽を教えることになった。「たくさんのジャズ、音楽を演奏し、教えたんです。みな感きわまって私を抱きしめ、その見えない白からは涙が滝のようにあふれ出ました。私は言葉もなく立ちつくすばかりでした」。

戦乱とドラッグと暴力が践雇し、教育も社会モデルも建設的方向性も不在のただなかでクリフが思いついたのが『銃のかわりにギターを』というアイディアだった。「音楽をやればまわりの人は気持ちよくなる。だが武器をとれば誰かが死ぬ。これでは勝ち目がない」というのがその理屈だ。クリフはオートバイを買うとギターや何百丁ものハーモニカを積みこみ、カンボジアの村々を旅してまわった。音楽を演奏し、教えながら彼がやろうとしたのは、心得違いの若者たちから武器をとりあげ、そのかわり!こ楽器をあたえることだった。

「いやはや楽天家もいいところですよ! でも楽器を破壊兵器と交換する、それを公開で廃棄する。これがスタートなんです! パラマウントやユニバーサル撮影所のホームピ、デオ部で働いていたころ、海賊版ビデオを公開で廃棄したものです。それはそれで効果があるんです」。

「楽器の販売額は武器とは較べものにならない。武器の氾濫は手におえません」。クリフはこの問題に世界の目を向けさせ、自分のプロジェクトに楽器製造業界から安い楽器を寄付してもらおうとしている。「神の加護のもと懸命に努力すれば、数年のうちにはこうした紛争地域にも健全な市場経済が育ち、楽器製造業は新しい
市場をえることになるでしょう」。

1998年にカンボジアをあとにしたクリフは新たな音楽の冒険に乗り出した。タイ東北イサーン地方出身の「モーラム(ラオス音楽)」のスーパースター歌手ジンタラ・プンラーブと仕事をはじめたのだ。このジンタラを世界に紹介したいと考えたクリフは、タイ最大手の興行会社グラミー社CEOを通じてジンタラにひきあわせてもらった。めったにないバンコク公演でジンタラを見たクリフはすっかり心を奪われ、その翌日にはおよそ100人からなる巨大なショー「ジンタラ・コンヴォイ」に加わっていた。この音楽キャラバンはそれから2年、イサーンの僻地をまわって毎晩のように野外コンサートをくりひろげることになる。

黄金の三角地帯にはメタフェタミンの麻薬製造所がはびこり、「毎日何トンもの”ヤバー”(麻薬の現地での呼称)が国境を越えて密輸され、子供や大人の身体と心を蝕んでいました」クリフは「ジンタラ・コンヴォイと旅するうちに、イサーンの若者たちにとってこのバンドが実に優れた社会モデルになることに気づいた。我々はモーラムのアイドルみたいなものになれるのではないかという気がしたんです」。

そしてそれはもちろんそのとおりになった。バンドメンバーたちはコンサート途上の病院や学校に立ち寄っては霊感に満ちた癒しの音楽を演奏し、『モーラム・ドクター』の役割をはたしたので、ある。「考えてもごらんなさい。警官が学校にやってきて、麻薬で、捕まったら1年臭い飯を食うことになるぞ、なんて言われるよりどれほどましか。音楽やコメディーのほうがよっぽど効果的ですJ。

クリフは現在東京に戻り、人材派遣会のリクルーターとして働いているが、そのかたわら自分のボランティア・プロジェクトをつづけ、一月おきに東南アジアにでかけている。

『見返りを求めぬ無償の、親切で寛大な行動を、必要な人々に』をモットーに、クリフはとてつもない無法を正さずにはいられない。「第一世界の人聞は自分の幸運を利己的にしまいこむのではなく、助けを必要としている人々への責任をはたすべきです。多感な時期に私はベトナムの不毛な戦争を見、最近ではカンボジアで閉じことを目撃しましたJ。そしてクリフはこう言う。「私は人々が生産的になるのを助ける能力が自分にそなわっていることがわかりました。そしてやがてはその人々がさらにほかの人々を助けるようになるのです」。

クリフとその活動についてもっと知りたい方はウェブサイト:
https://www.cliffworks.net にアクセスするか、
メール: cliff@cliffworks.net Tel Tokyo (81) 090-7729-1195 に連絡してください。